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第7話  見ている人

last update publish date: 2026-08-31 19:00:17

 火曜日の朝、沙耶は少し早く起きた。

 理由は自分でもよくわかっていた。来週の打ち合わせに向けて、フォントの選択肢を整理しておきたかった。神崎に「迷いが見えた」と言われたあの部分を、もう一度きちんと考えたかった。

 達哉が起きてくる前に、一時間だけ。

 パソコンを開いて、コンセプト案のファイルを出した。フォントのページだけを切り取って、別のファイルに並べる。明朝体が三種類、サンセリフが二種類。それぞれにキーワードを当てはめて、どれが一番「静かな強さ」に近いかを見ていく。

 頭が、静かに動いている。

 こういう時間が、好きだ。誰にも邪魔されない、自分だけの思考の時間。答えが出るかどうかより、考えること自体が心地よい。

 三十分ほど経った頃、寝室のドアが開く音がした。

 沙耶はパソコンを閉じた。

 反射的に、だった。

 閉じてから、自分がそうしたことに気づいた。達哉が起きてくる前に閉じた。見られたくなかったわけじゃない──と思う。ただ、あの「胡散臭い」という言葉が、まだ耳に残っていた。昨夜の言葉が、今朝の沙耶の手を動かした。

 これが、積み重なるってことなんだろうな。

 沙耶は立ち上がって、キッチンへ向かった。今日の朝食を作り始める。いつも通りの朝が、また始まった。

 水曜日の夜、沙耶はフォントの結論を出した。

 明朝体の中でも、線の細いもの。主張しすぎない、でも存在感がある。「静かな強さ」という言葉に、一番近い。迷っていたのは、見た目の美しさを優先しすぎていたからだった。美しさより、伝わること。依頼主が誰に何を届けたいかを、もう一度起点にすると、答えはひとつに絞れた。

 沙耶はその選択を、小さなメモに書いた。

 なぜその選択をしたか、言語化しておく。打ち合わせで聞かれたとき、感覚だけで答えるのではなく、ちゃんと言葉にして伝えたかった。

 神崎さんは、理由を聞く人だと思う。

 まだ二度しか話していないのに、そう感じていた。結果だけでなく、そこに至る思考のプロセスを大切にする人。そういう人に、感覚だけで答えたくなかった。

 メモを書き終えて、沙耶はふと思った。

 仕事の相手に、こんなふうに準備をするのはいつぶりだろう。失望させたくない、という気持ちが、こんなに自然に出てくるのはいつぶりだろう。

 木曜日、午後二時。

 先週と同じ時間に、同じようにZoomを開いた。でも今週は、接続ボタンをためらわずに押せた。

 画面に神崎が現れた。

 「岸谷さん、こんにちは」

 「こんにちは。よろしくお願いします」

 今日は早口にならなかった。自分でも気づいた。

 神崎は微かに目を細めた。先週も同じ表情をした。口元はほとんど動かないのに、目だけが笑う。その表情が、沙耶には少しだけ読みやすくなっていた。

 「早速ですが、フォントの件を聞かせてください」

 沙耶はメモを手元に置いて、話し始めた。

 迷った理由、見直した視点、最終的な選択とその根拠。準備してきたことを、順番に話した。途中で神崎は何度か頷いて、遮ることなく最後まで聞いた。

 「なるほど」

 話し終えると、神崎は短くそう言った。

 「美しさより、伝わること、ですか」

 「はい」

 「それが岸谷さんの仕事の軸ですね」

 沙耶は、すぐに返事ができなかった。

 私の仕事の軸。

 そんなふうに言語化されたことは、なかった。自分でも意識していなかったわけではないけれど、誰かに「それがあなたの軸だ」と言われたのは初めてだった。

 「……そうかもしれません」

 「そうかもしれない、ではなく」

 神崎は静かに言った。

 「そうです、と言っていい」

 沙耶は少しの間、黙った。

 断言することに、慣れていなかった。自分のことを「そうです」と言い切ることが、いつの間にかできなくなっていた。断言すると、達哉に「大げさ」とか「そんな大したことでもないでしょ」と返ってくることが多かったから。

 「……そうです」

 少し遅れて、沙耶は言った。

 「はい」と神崎は言った。それだけだった。でもその「はい」が、沙耶には十分だった。

 フォントの話が終わると、神崎はコンセプト案全体のフィードバックに移った。

 良い点と、改善できる点を、同じ温度で話した。褒めるときも、指摘するときも、声のトーンが変わらない。感情的にならず、でも冷たくもなく、ただ率直に言葉を選ぶ。

 沙耶はメモを取りながら、ふと思った。

 この人は、ちゃんと見ている。

 仕事の中身だけじゃない。沙耶が言葉を選ぶときの間、答えるときの表情、迷っているときの目の動き。そういうものを、神崎は静かに見ている気がした。見て、でも何も言わない。ただ、知っている。

 少し怖いような、でも安心するような、不思議な感覚だった。

 「岸谷さん」

 フィードバックが一段落したところで、神崎が言った。

 「少し、仕事と関係ない話をしてもいいですか」

 沙耶は手を止めた。

 「はい」

 「岸谷さんは、自分の仕事を過小評価する癖がある」

 沙耶は、その言葉を受け取るのに少し時間がかかった。

 「……そうですか」

 「さっきも、私が軸の話をするまで、自分では言わなかった。先週も、コンセプト案を送るメールに『ラフな段階のもの』と書いていた。でもあれはラフではなかった」

 沙耶は黙った。

 「クオリティに自信がないのではなく──自信があることを、表に出すことに慣れていない」

 図星だった。

 言い返す言葉が、出てこなかった。図星すぎて、笑いたくなるような、泣きたくなるような気持ちが、同時に来た。

 「……なぜ、そう思うんですか」

 「仕事の内容と、言葉の選び方が、ちぐはぐだからです」

 神崎は静かに言った。

 「岸谷さんのデザインは、堂々としている。でも岸谷さんの言葉は、いつも一歩引いている。そのギャップが気になっていました」

 沙耶は窓の外を、一瞬だけ見た。

 誰かに、こんなふうに見られていたんだ。

 気づかれていないと思っていた。仕事の相手に、こんな内側のことを読まれているとは思っていなかった。

 「余計なことを言いましたか」

 「……いいえ」

 沙耶は画面に視線を戻した。

 「ありがとうございます」

 神崎は小さく頷いた。それ以上は言わなかった。仕事の話に戻るでもなく、しばらく静かな間があった。

 その間が、不思議と苦しくなかった。

 打ち合わせが終わって、画面が暗くなった。

 沙耶はしばらく、パソコンの前に座ったままだった。

 自信があることを、表に出すことに慣れていない。

 その言葉が、頭の中で繰り返されていた。

 慣れていない、というより──慣れないようにさせられてきた、のかもしれない。

「大したことじゃない」「続かないでしょ」

「誰でもできる」。そういう言葉を受け取るたびに、沙耶は少しずつ、自分を小さくすることを学んでいった。

 小さくしていれば、傷つかなくて済む。

 でもそれは同時に、自分の仕事を「ラフな段階のもの」と呼ぶことでもあった。

 沙耶は手元のメモを見た。フォントの選択理由が、自分の字で書いてある。

 美しさより、伝わること。

 これが私の軸だ。

 今日から、そう言おう。「そうかもしれない」じゃなくて。

 小さな決意だったけれど、沙耶には十分だった。

 夜、達哉が帰ってきた。

 「おかえり」

 「ん」

 今日は打ち合わせのことを話さなかった。話したいとも思わなかった。神崎との時間は、今の沙耶にとって、達哉の言葉が届かない場所にある。そこに達哉を入れたくなかった。

 それは隠しているのではなく──守っているのだと、今日の沙耶は思えた。

 夕飯を出して、二人で食べて、沙耶は黙って皿を洗った。

 達哉はテレビを見ていた。

 いつも通りの夜だった。

 でも沙耶の中には、今日もちゃんと、消えない何かが残っていた。

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