LOGIN火曜日の朝、沙耶は少し早く起きた。
理由は自分でもよくわかっていた。来週の打ち合わせに向けて、フォントの選択肢を整理しておきたかった。神崎に「迷いが見えた」と言われたあの部分を、もう一度きちんと考えたかった。 達哉が起きてくる前に、一時間だけ。 パソコンを開いて、コンセプト案のファイルを出した。フォントのページだけを切り取って、別のファイルに並べる。明朝体が三種類、サンセリフが二種類。それぞれにキーワードを当てはめて、どれが一番「静かな強さ」に近いかを見ていく。 頭が、静かに動いている。 こういう時間が、好きだ。誰にも邪魔されない、自分だけの思考の時間。答えが出るかどうかより、考えること自体が心地よい。 三十分ほど経った頃、寝室のドアが開く音がした。 沙耶はパソコンを閉じた。 反射的に、だった。 閉じてから、自分がそうしたことに気づいた。達哉が起きてくる前に閉じた。見られたくなかったわけじゃない──と思う。ただ、あの「胡散臭い」という言葉が、まだ耳に残っていた。昨夜の言葉が、今朝の沙耶の手を動かした。 これが、積み重なるってことなんだろうな。 沙耶は立ち上がって、キッチンへ向かった。今日の朝食を作り始める。いつも通りの朝が、また始まった。 水曜日の夜、沙耶はフォントの結論を出した。 明朝体の中でも、線の細いもの。主張しすぎない、でも存在感がある。「静かな強さ」という言葉に、一番近い。迷っていたのは、見た目の美しさを優先しすぎていたからだった。美しさより、伝わること。依頼主が誰に何を届けたいかを、もう一度起点にすると、答えはひとつに絞れた。 沙耶はその選択を、小さなメモに書いた。 なぜその選択をしたか、言語化しておく。打ち合わせで聞かれたとき、感覚だけで答えるのではなく、ちゃんと言葉にして伝えたかった。 神崎さんは、理由を聞く人だと思う。 まだ二度しか話していないのに、そう感じていた。結果だけでなく、そこに至る思考のプロセスを大切にする人。そういう人に、感覚だけで答えたくなかった。 メモを書き終えて、沙耶はふと思った。 仕事の相手に、こんなふうに準備をするのはいつぶりだろう。失望させたくない、という気持ちが、こんなに自然に出てくるのはいつぶりだろう。 木曜日、午後二時。 先週と同じ時間に、同じようにZoomを開いた。でも今週は、接続ボタンをためらわずに押せた。 画面に神崎が現れた。 「岸谷さん、こんにちは」 「こんにちは。よろしくお願いします」 今日は早口にならなかった。自分でも気づいた。 神崎は微かに目を細めた。先週も同じ表情をした。口元はほとんど動かないのに、目だけが笑う。その表情が、沙耶には少しだけ読みやすくなっていた。 「早速ですが、フォントの件を聞かせてください」 沙耶はメモを手元に置いて、話し始めた。 迷った理由、見直した視点、最終的な選択とその根拠。準備してきたことを、順番に話した。途中で神崎は何度か頷いて、遮ることなく最後まで聞いた。 「なるほど」 話し終えると、神崎は短くそう言った。 「美しさより、伝わること、ですか」 「はい」 「それが岸谷さんの仕事の軸ですね」 沙耶は、すぐに返事ができなかった。 私の仕事の軸。 そんなふうに言語化されたことは、なかった。自分でも意識していなかったわけではないけれど、誰かに「それがあなたの軸だ」と言われたのは初めてだった。 「……そうかもしれません」 「そうかもしれない、ではなく」 神崎は静かに言った。 「そうです、と言っていい」 沙耶は少しの間、黙った。 断言することに、慣れていなかった。自分のことを「そうです」と言い切ることが、いつの間にかできなくなっていた。断言すると、達哉に「大げさ」とか「そんな大したことでもないでしょ」と返ってくることが多かったから。 「……そうです」 少し遅れて、沙耶は言った。 「はい」と神崎は言った。それだけだった。でもその「はい」が、沙耶には十分だった。 フォントの話が終わると、神崎はコンセプト案全体のフィードバックに移った。 良い点と、改善できる点を、同じ温度で話した。褒めるときも、指摘するときも、声のトーンが変わらない。感情的にならず、でも冷たくもなく、ただ率直に言葉を選ぶ。 沙耶はメモを取りながら、ふと思った。 この人は、ちゃんと見ている。 仕事の中身だけじゃない。沙耶が言葉を選ぶときの間、答えるときの表情、迷っているときの目の動き。そういうものを、神崎は静かに見ている気がした。見て、でも何も言わない。ただ、知っている。 少し怖いような、でも安心するような、不思議な感覚だった。 「岸谷さん」 フィードバックが一段落したところで、神崎が言った。 「少し、仕事と関係ない話をしてもいいですか」 沙耶は手を止めた。 「はい」 「岸谷さんは、自分の仕事を過小評価する癖がある」 沙耶は、その言葉を受け取るのに少し時間がかかった。 「……そうですか」 「さっきも、私が軸の話をするまで、自分では言わなかった。先週も、コンセプト案を送るメールに『ラフな段階のもの』と書いていた。でもあれはラフではなかった」 沙耶は黙った。 「クオリティに自信がないのではなく──自信があることを、表に出すことに慣れていない」 図星だった。 言い返す言葉が、出てこなかった。図星すぎて、笑いたくなるような、泣きたくなるような気持ちが、同時に来た。 「……なぜ、そう思うんですか」 「仕事の内容と、言葉の選び方が、ちぐはぐだからです」 神崎は静かに言った。 「岸谷さんのデザインは、堂々としている。でも岸谷さんの言葉は、いつも一歩引いている。そのギャップが気になっていました」 沙耶は窓の外を、一瞬だけ見た。 誰かに、こんなふうに見られていたんだ。 気づかれていないと思っていた。仕事の相手に、こんな内側のことを読まれているとは思っていなかった。 「余計なことを言いましたか」 「……いいえ」 沙耶は画面に視線を戻した。 「ありがとうございます」 神崎は小さく頷いた。それ以上は言わなかった。仕事の話に戻るでもなく、しばらく静かな間があった。 その間が、不思議と苦しくなかった。 打ち合わせが終わって、画面が暗くなった。 沙耶はしばらく、パソコンの前に座ったままだった。 自信があることを、表に出すことに慣れていない。 その言葉が、頭の中で繰り返されていた。 慣れていない、というより──慣れないようにさせられてきた、のかもしれない。 「大したことじゃない」「続かないでしょ」 「誰でもできる」。そういう言葉を受け取るたびに、沙耶は少しずつ、自分を小さくすることを学んでいった。 小さくしていれば、傷つかなくて済む。 でもそれは同時に、自分の仕事を「ラフな段階のもの」と呼ぶことでもあった。 沙耶は手元のメモを見た。フォントの選択理由が、自分の字で書いてある。 美しさより、伝わること。 これが私の軸だ。 今日から、そう言おう。「そうかもしれない」じゃなくて。 小さな決意だったけれど、沙耶には十分だった。 夜、達哉が帰ってきた。 「おかえり」 「ん」 今日は打ち合わせのことを話さなかった。話したいとも思わなかった。神崎との時間は、今の沙耶にとって、達哉の言葉が届かない場所にある。そこに達哉を入れたくなかった。 それは隠しているのではなく──守っているのだと、今日の沙耶は思えた。 夕飯を出して、二人で食べて、沙耶は黙って皿を洗った。 達哉はテレビを見ていた。 いつも通りの夜だった。 でも沙耶の中には、今日もちゃんと、消えない何かが残っていた。十一月の終わり、打ち合わせは午後二時からだった。 神崎のオフィスに着くと、チームの二人はすでに席についていた。沙耶が入ると、「お疲れ様です」と声がかかった。 三ヶ月前、初めてここに来た日には、この部屋の空気に少し緊張した。今日はそれがなかった。 「始めましょうか」と神崎が言った。 新ブランドのターゲット設定について、沙耶が用意してきた案をもとに、一時間ほど議論した。チームの意見が出て、神崎が整理して、沙耶がまた言葉を足す。その往復が、今日はよく機能していた。 打ち合わせが終わって、チームの二人が席を外した。 神崎がコーヒーを二つ持ってきた。 「少しいいですか」 「岸谷さんは」と神崎は言った。「どんなブランドを作りたいですか。自分自身の、という意味で」 仕事の延長線上にある質問だった。 でも沙耶には、その問いが仕事の外側まで届いた。 「……考えたことが、なかったです」 正直に言った。 「そうですか」 「自分が作りたいもの、というより、相手が必要としているものを考えてきた気がして。クライアントが何を求めているか、どう応えるか──そちらに、ずっと意識が向いていたので」 神崎はコーヒーカップを両手で持って、少し考えるように間を置いた。 「それは強みでもある」 「強み」 「相手を見
珍しいことだった。 「今日、遅くなる」 朝、達哉がそれだけ言って出ていった。何時になるかは言わなかった。沙耶も聞かなかった。 扉が閉まって、鍵がかかる音がした。 午前中は、神崎から送られてきた資料の確認をした。 新ブランドのターゲット設定について、神崎がいくつかの案を出していた。沙耶はそれぞれにコメントを書き込みながら、自分の考えを整理した。 誰に届けるか。誰を選ぶか。 神崎の言葉が、作業の中にまだ生きていた。 午後になって、沙耶は好きな音楽をかけた。 いつもはイヤホンをつけて作業する。達哉がいると、音が気になると言うから。でも今日は一人だったから、小さなスピーカーから流した。部屋に音楽が広がった。それだけのことが、少し特別に感じられた。 夕方、小腹が空いたので、冷蔵庫にあったチーズと、クラッカーを出した。 夕飯の時間を気にせずに食べた。 達哉がいる日は、夕飯の時間が決まっている。七時までには食卓に出す。それが暗黙のルールだった。誰かが決めたわけではなかった。でも七時を過ぎると、達哉の機嫌が少し変わった。だから沙耶は六時半には台所に立っていた。 今日は、その時間が来ても台所に立たなかった。 七時になった。 クラッカーをもう一枚食べながら、資料の続きを読んだ。 八時を過ぎた頃、沙耶は一人でご飯を食べた。 冷蔵庫にあったもので、簡単に作った。味噌汁と、卵焼きと、残
誕生日当日は、土曜日だった。 午前中、沙耶は仕事の作業を一段落させてから、スマートフォンを手に取った。達哉はリビングにいた。沙耶は寝室に移って、扉を閉めた。 実家に電話するのに、扉を閉める必要はないはずだった。でも今日は、閉めたかった。 呼び出し音が三回鳴った。 「はい」 母の声だった。 「お母さん、お父さんいる?」 「いるよ、ちょっと待って」 受話器が置かれる音がした。遠くで「宏幸さん、沙耶から」という母の声が聞こえた。それから少し間があって、足音が近づいてきた。 「ああ」 父の声だった。電話口の父はいつも、最初の一言が「ああ」だった。 「誕生日おめでとう」 「……ああ」 二つ目の「ああ」は、最初のものより少し低かった。照れているときの声だ、と沙耶は知っていた。 しばらく、沈黙があった。 父との電話は、いつもこうだった。沈黙が長くて、言葉が短い。慣れない頃は、何か話さなければと焦った。今は──この沈黙の中に、ちゃんと父がいることがわかるから、焦らない。 「プレゼント、送ったよ。届いてる?」 「届いてる」 「気に入ってもらえるといいんだけど」 「……使う」 そ
父の誕生日は、十一月の終わりだった。 沙耶は一人でデパートへ行った。 達哉には「出かけてくる」とだけ言った。どこへ、とは言わなかった。父の誕生日だから、と説明することもできた。でも──説明しなかった。 説明する必要がなかったから、という理由が、今の沙耶には自然に出てくるようになっていた。 平日の午後、デパートの中は人が少なかった。 沙耶はエスカレーターを上りながら、父に何を贈るかを考えた。毎年、この時期になると考える。毎年、答えを出すのに時間がかかる。 父は欲しいものを言わない人だった。 聞いても「何もいらない」と言う。「何でもいい」とも言わない。ただ「何もいらない」と言って、それ以上話さない。だから沙耶はいつも、父が何を好きかを思い出しながら、売り場を歩く。 今年は何にしよう。 紳士用品のフロアを歩きながら、沙耶は父のことを考えた。 無口な人だった。家族の中で一番、言葉が少なかった。食卓でも、リビングでも、父の声が聞こえる時間は短かった。でもその分、たまに言う言葉が、妙に重かった。 「無理すんな」と電話口で言われたとき、沙耶は泣いた。五文字だった。それだけで、泣いた。 どうして五文字で泣けるんだろう、と思いながら泣いた。 ハンカチの売り場の前で足が止まった。父はハンカチをよく使う。いつもズボンのポケットに入れている。布製の、柄のないもの。沙耶が子どもの頃、転んで膝を擦ったとき、父はそのハンカチで血を拭いてくれた。何も言わずに、しゃがんで、丁寧に拭いた。 沙耶はハンカチを三枚
画面の向こうで、神崎が資料を開いた。オンライン打ち合わせの背景は、いつもと同じオフィスの一角だった。本棚と、白い壁と、観葉植物の端。余分なものが映り込まない角度を、この人はいつも選んでいる。「今日は少し、僕の話をしてもいいですか」神崎が言った。議題の確認よりも先に、そう切り出した。「もちろんです」「ブランドの言葉を作るとき、僕がまず考えることがあって」「はい」「そのブランドを、嫌いな人は誰か、ということです」沙耶はペンを持ったまま、少し止まった。「嫌いな人、ですか」「そうです」と神崎は言った。表情は穏やかだった。「好きになってくれる人を考えるより、先に」「それは──なぜ」「全員に好かれようとすると、誰の心にも届かない。言葉が丸くなりすぎて、触れても何も感じないものになる」神崎は資料のページをめくった。「誰かに届けようとするとき、その誰かを選ぶことが必要です。選ぶということは、別の誰かを選ばないということでもある。それを恐れると、ブランドは輪郭を失う」沙耶はメモを取った。誰かを選ぶことが、誰かを救うことになる。書きながら、手が少し止まった。「岸谷さんは、これまでのクライアントワークで、そこを意識したことはありましたか」神崎に聞かれて、沙耶は少し考えた。「……意識していなかったと思います。届けたい人を考えることはあっても、届けなくていい人を考えたことは、なかった気がして」
思ったのは、特別な瞬間ではなかった。木曜日の午後、寝室の隅のデスクで作業をしていたときだった。神崎から送られてきたブランドの資料を開いて、コメントを書き込もうとした瞬間、達哉が部屋に入ってきた。「あ、ごめん、邪魔した?」「大丈夫」と沙耶は答えた。 達哉は特に何をするわけでもなく、クローゼットから何かを取り出して、また出ていった。それだけのことだった。 でも沙耶は、達哉が入ってきた瞬間に画面から目が離れたことに気づいた。集中が、糸を切られたように途切れた。達哉が何も言わなくても、その気配だけで、沙耶の思考は一度止まった。 作業部屋があったら、と思った。思ってから、その考えが思ったより自然に出てきたことに、少し驚いた。その夜、夕飯の片付けが終わった後、沙耶は達哉に話した。「ねえ、ちょっといい?」「なに」達哉はソファに座ったまま、スマートフォンを置いた。話を聞く体勢になった。それは悪くない兆候だった。「仕事部屋、作ってもいいかなって思って」「仕事部屋」「今、寝室のデスクで作業してるんだけど、集中できなくて。納戸を片付けたら、デスクくらい置けるんじゃないかと思って」達哉は少し考えるような間を置いた。「どこに作るって?」「納戸」「俺の荷物があるけど」「片付けるの、手伝うよ。段ボールに入れて、押し入れに移せば──」「別に今のままでいいじゃん」それで、終わった。